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プロフィール
minokei1

2010年11月08日

川相昌弘

川相 昌弘(かわい まさひろ、1964年9月27日 - )は、岡山県岡山市南区出身の元プロ野球選手(内野手)、野球指導者、監督。
現役時代は読売ジャイアンツと中日で活躍。通算533本の犠牲バントは世界最多記録で、バント職人の異名を持つ。巨人史上屈指の守備力を誇る遊撃手でもあった。ニックネームはしわが多く老け顔だったことと「和製オジー・スミス」に引っ掛けて「ジイ」。あるいは、「人生送りバント」と表現する者もいる。
現在は、読売ジャイアンツの二軍監督を務める。
目次 [非表示]
1 来歴・人物
1.1 高校時代
1.2 巨人時代
1.3 中日時代
1.4 引退後
2 詳細情報
2.1 年度別打撃成績
2.2 背番号
2.3 タイトル・表彰
2.4 個人記録
3 過去の出演番組
4 書籍
5 脚注
6 関連項目
来歴・人物 [編集]

高校時代 [編集]
岡山市立第二藤田小学校、藤田中学校から岡山県立岡山南高等学校へ入学。岡山南高では投手として活躍し、1981年の第63回全国高等学校野球選手権大会と1982年の第54回選抜高等学校野球大会の2回、甲子園に出場した。1982年の春は主将も務め、2回戦で早稲田実と対戦。敗れはしたものの、荒木大輔と互角の投手戦を演じた。その年の夏も甲子園出場を期待されていたが、岡山大会の準決勝で岡山東商に敗れ、最後の夏は甲子園に出場できなかった。この時、岡山東商の4番を打っていたのが、当時2年生の八木裕だった。
巨人時代 [編集]
1982年のドラフト会議で巨人に4位指名を受け入団。高校時代はエースで主軸(おもに5番)打者を務め、投手としての指名だった。入団直後に野手へ転向。1983年は二軍暮らしだったが、二軍コーチだった須藤豊の熱心な指導により徐々に才能が開花。1984年に守備力が王貞治監督(当時)の目に留まり一軍に初昇格。1985年から守備要員として一軍に定着し、プロ初犠打は同年6月13日の対ヤクルトスワローズ12回戦(福井県営球場)の7回裏、阿井英二郎から決めた。
1987年のリーグ優勝には内外野の守備固め要員として貢献した。王政権時代、当時の巨人は引退した河埜和正の後を継ぐ遊撃手の定位置の座を、岡崎郁と西武から移籍した鴻野淳基の2人が争っていたが、守備力を武器に勝呂博憲も台頭し、競争は激しさを増していた。1989年に藤田元司が監督に復帰すると、第4の存在だった川相と緒方耕一が台頭する。レギュラーに定着したのは、打撃面で伸び悩み、守備要員としても守備位置が一定せず外野手での出場が6割を占めていたこともあった川相であった。なかなか定着しなかった当時の巨人の遊撃手候補は、一軍レベルで見ると遊撃手としてはやや足に難のあった岡崎、打力で川相以上に伸び悩む勝呂、即戦力要員ながら結果が出ず、守備も不安があった鴻野と他のメンバーに一長一短があったという事情もあったが、川相は持ち前の守備能力、確実性のある小技を磨き、絶対的な巨人の2番・遊撃の座を勝ち取った。この頃、スイッチヒッターに挑戦するが、結局は右打ちに戻す。
1987年の日本シリーズにて、秋山幸二のセンター前ヒットに対してウォーレン・クロマティが緩慢な送球を返し、一塁走者の辻発彦を一気にホームインさせたプレーの時に返球を受けていたのが川相だった。クロマティの動きに対する批判が多かったが、川相は「クロマティのプレーを頭に入れておかなかった自分のミス」と語り、悔しさを口にした。西武の三塁コーチだった伊原春樹も、川相が先頭の走者ではなく打者走者を見る癖があったのがポイントだったと語っている。1994年のvs西武戦(オープン戦)で、二塁走者だった川相は、次打者のセンターフライを佐々木誠が後ろ向きで捕球したのを見ると、猛然とタッチアップでスタートし、西武の緩慢な中継のスキを突いて本塁を落とし入れた。川相は後に、上記のプレーの反省が頭にあったと述べている。
1990年に和田豊の年間犠打記録を抜き、プロ野球新記録を樹立。1991年には66犠打を記録し、当時の年間犠打新記録を更新する(現在の記録は2001年に宮本慎也が記録した67犠打)。1993年・1994年はチーム内首位打者になるなど打撃面でも成長を遂げ、攻守に渡ってチームを引っ張り、特に1994年の通算打率は3割2厘という好成績を記録。1990年代を代表する選手の一人にまで成長した。
1994年には、10月1日のvsヤクルト戦で決勝打を放ち、試合後のヒーローインタビューで子供たちの名前(当時は二男一女)を叫んだ[1]。10.8決戦では、9回にバックスクリーンを直撃する打球を放つが、三塁打の判定に長嶋茂雄が猛抗議するも受け入れられず、結局1994年のホームランは0本だった。
1996年から1998年まで巨人の選手会長を務め、名実ともに巨人の顔となった。長嶋が清水隆行を2番に据える攻撃的な野球を標榜したため、7番や8番を打つ機会も増えてきた。1998年には平野謙が樹立した通算451犠打のプロ野球記録を抜き、日本球界歴代1位に躍り出る。1999年には二岡智宏の加入により出場機会は減少したものの、守備要員・バント要員で依然チームに欠かせない存在だった。二岡の台頭もあり遊撃手での出場機会が大幅に減り、三塁手での出場が中心になる。2003年8月20日には通算512犠打を達成し、エディ・コリンズのメジャー記録を超え、ギネスブックにも記録された。なお、この犠打を決めた時、川相の右足が打席から出ていた、という写真が『巨人軍5000勝の記憶』にも掲載された。
同年、現役引退を表明。一軍コーチ就任が内定していたが、原辰徳辞任により、混乱の後に二軍コーチ降格を言い渡され、引退を撤回し巨人を「退団」。1998年に川相自身に対してヘッドコーチとして理不尽な暴力をふるった堀内恒夫の監督就任も退団の大きな要因と言われている(著書では否定)。直後、落合博満率いる中日ドラゴンズに入団テストを経て移籍。
中日時代 [編集]
自身と同じ遊撃手で、球団史上最多通算本塁打記録を持つ宇野勝がつけていた背番号7を与えられたことからも、川相に対する期待の大きさが窺える[2]。
2004年は落合監督の「一芸に秀でている選手を使う」という采配に合致する活躍を見せ、地味ながらも代打バント・守備要員として存在感を発揮。サヨナラヒットを2本打つなど、中日のリーグ優勝に大きく貢献した。移籍後初めてvs巨人戦に代打出場してバントを決めたことや、札幌ドームで佐藤宏志から本塁打を打ったことで、古巣・巨人の応援席を含めて球場全体から歓声が沸き起こったこともあった。同年の日本シリーズ第2戦では、9回表から主軸の立浪和義に代わる守備固めで三塁の守備に就き、無死無走者で赤田将吾が岩瀬仁紀から放ったゴロを一塁に送球し無難に処理、それが同試合唯一の守備機会ながら、球団史上初の「ナゴヤドームでの日本選手権試合初勝利」に貢献。
2005年、出場機会は減少したものの、守備固めや代打として活躍した。
2006年には球界初の「メンタルアドバイザー」に就任。コーチの肩書では会議に出席する必要があるので、あくまで相談役というポジションに落ち着いた。チームが勝っている試合で8・9回辺りから主に立浪の守備固めとして出場することが多かったが、荒木雅博の怪我などで5月には「2番・二塁手」としてスタメン起用された。しかし、森野将彦が怪我から復帰しスタメン獲得、立浪が代打要員となり、セカンド要員として奈良原浩をトレード獲得、7月頃に荒木が復帰したことから出場機会が無くなり、球宴直前に登録抹消。その後は一軍に帯同しながら、メンタルアドバイザーとして裏方からリーグ優勝に貢献した。中日スポーツで毎週月曜日に「明日への送りバント」という題名で寄稿もしていた。「初回からバントをするような野球は好きではない」とも語っている。攻撃的な2番打者が理想らしく、2006年5月24日に2番・二塁で出場した時には第1打席からセーフティバントを狙ったこともある。
10月13日、来季の選手契約を結ばない方針と一軍コーチ就任要請を球団から伝えられて現役引退を表明。翌年(実質的には同年オフのキャンプ時)から中日一軍の内野守備走塁コーチに就任することも発表された。
2006年10月15日、ナゴヤドームでのシーズン最終戦・vs横浜戦は川相の引退試合として、2番・三塁でスタメン出場。1打席目は安打、2打席目では伝家の宝刀・送りバントを三塁線に決め、観客から大きな拍手が送られた。7回には1イニングだけ、慣れ親しんだ遊撃の守備にも就く。この日の犠打で通算犠打数は「533」となり、自身が持つ世界記録を更新。試合終了後はチームメイトから胴上げされ、挨拶では「24年間の選手生活の中で、中日での3年間が最高だった。日本シリーズを花道にしたい」と語った。2006年の日本シリーズでは第5戦に代打で登場。最後の送りバントを決め、有終の美を飾った。川相の引退により、1964年度生まれのプロ野球選手は全員がユニフォームを脱いだ。
引退後 [編集]
2007年シーズンからは中日ドラゴンズ一軍内野守備走塁コーチに就任。公式戦では一塁コーチスボックスに立っていた。オープン戦では経験を積む為、三塁コーチスボックスに立っていることもあった。
2010年シーズンからは二軍監督を務め、同年限りで退団通告を受ける[3]。2011年からは古巣巨人で二軍監督を務める。[4]


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